第17回
~十六宵遺跡 鏡の井~
第16回で紹介した翁別神社の境内には、「十六宵遺跡 鏡の井」があります。
説明板に記されている民話「鏡の井」は以下の通りです。
この箱崎一帯の浦に鶴が啼き渡って葦津の浦と呼ばれた頃、老境に入っても子が無いために嘆きの漁夫がいた。筥崎宮に日参して「子が授かるように」と祈願を込めた甲斐あって満願の日に懐胎して元慶4年(880)8月16日の夕、女の児が誕生したので、月に縁の「十六宵」と名付け、神の申し子と愛で育てた。この子が7歳になるとき、浜辺の小高いところに自然に清水が湧き出したが、その清らかなことは明鏡のごとく、その味は甘露のようであった。
十六宵はいつもこの水を汲んで髪を梳り、容姿を整えていたので、人々はこの池を鏡の井といった。そののち十六宵は輝くばかりの美女に成長したが、宇多天皇の御代寛平6年(894)3月、彼女が13歳のときのこと、都からくだってきた奉幣使の橘卿は十六宵のことを聞き、彼女を官女にしようと都に伴うことになり、彼女の姿はこの浦から見えなくなった。すると、今まで湧き出していた清水はすっかり枯れて、池の跡はもとの砂浜になってしまった。そののち年を経て、陰陽師阿部晴明が唐からの帰朝の途次、この浦に立ち寄って鏡の井を尋ねたが、誰もそれを知る者はなかった。
そこで晴明は携えていた杖を呪文を唱えながら空中に投げると、不思議にも杖はたちまち白龍に化して地上にくだるとみるや、大地は振動して裂け、清水が噴き出して空中高くほとばしり、龍は水に躍って水底に姿をかくした。晴明はこれを見て、これこそ昔の鏡の井であるとて、石を集めて井筒を築いた。これからこの井戸は干ばつにも枯れることなく名水と伝えられた。天正15年(1587)に豊臣秀吉が博多を訪れ、千代松原で茶の湯の会を催したとき、随行の千利休はこの井戸の水を汲んで茶を点じて秀吉に奉ったということだ。
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