平成27年1月1日
英語教育、現場から思うこと
英語教育は常に改革
今は現場を離れているが、二十年ほど高校で英語を教えてきた。なぜこの道に入ったのか考えると、習った先生の存在が大きいと感じる。今のように英語で授業が行われることはなかったが、中高の先生方は興味を引き出しつつ、基本が定着するよう工夫して授業を展開されていた。その後の英語学習の礎を築いていただいたと感謝している。教職の道に入り、試行錯誤しながら授業に取り組むようになるわけだが、すでに英語教育については常に「改革」が叫ばれ、「コミュニケーション能力育成」が至上課題であった。この方針自体に異論はないのだが、現行の学習指導要領では「授業は英語で行うことを基本とする」となっている。もちろん教師が一方的にしゃべるのではなく、生徒の使用場面を増やすという意図があるのだろうが、こうなると少し行き過ぎなのではないかと違和感を覚える。
というのは高校にはいろんな学力層の学校があり、中学校の内容を教えるのに奮闘している学校もあるからだ。また、特に読解の場合、英語でとなると読みが表層的になる危険性がある。これに対し従来の訳読式は、背景知識を解説しながら読み進める授業であり、とても知的な作業であると考える。もっとも、コミュニケーション能力が重視される中で、訳読式の評価は低く、教師は罪悪感さえ覚えながら、密かに行う雰囲気もあるが・・・。
要はバランスの問題で、教師は各現場で生徒の実態に応じて授業を行っているという現実は以前と変わらないのではないかと思う。
小学校英語教育の低年齢化
さて、「グローバル化」によって英語教育の改革はさらに加速化し、英語教師への要求も高まるばかりであるが、学校では教科の一つに過ぎず、他教科と同程度、教育課程に組み込まれているだけなのだ。しかし、英語に限って六年習ったのに話せないといった恨み節を聞くことも多々ある。外国語教育は最も国策を反映する教科であり、政治や経済界の意向が大きく反映するからであろう。次期学習指導要領からは小学校三年生から英語の授業が開始されるとのことだが、いささか焦り過ぎなのではないかと感じる。母国語によるアイデンティティ形成のためのプログラム改善の方が先だと思う。また、小学校五年生からは教科としての扱いになるとのことだが、教員の確保は大丈夫なのだろうか?
小中一貫教育の制度化の流れも関係しているのだと思うが、外国語を導入する際の最初の教師はその後を左右する大きな存在である。研修を少し受けた学級担任に荷を負わすのは無謀だと思う。ただでさえ疲弊している現場に新たな多忙化をもたらすだけである。早期英語教育と児童心理に熟達した教員を配置しない限り、公教育としての質の保障は難しいのではないだろうか。
大学入試の外部試験活用
大学入試の安易な外部試験活用も危険である。その対策に追われることになる。一部の大学が求める場合は別として、日本の高校生のためのテスト開発が必要である。高校で身につけるべき基礎力判定と、必要に応じて将来伸ばすべき力を適切に評価するシステム構築により、努力した生徒が着実に報われる制度の在り方を高校現場の教師の多くは望んでいるのではないか。これからの英語教育に必要な視点
これからの英語教育に必要だと考えられる視点を整理する。1.早期英語教育は精神性に関わる問題である。グローバル化とアイデンティティの整合性をきちんと説明すること。
2. 運用能力のみに特化せず、母国語との対比による外国語学習法にも目を向けること。
3. 国益を担うエリートは必要。しかし、学校教育においては同時に底上げを図ることが現状として喫緊の課題であること。
もちろん、教師の能力向上は常に課題である。学校現場での意欲的実践につながる施策こそが求められており、教師たちもそれに応える準備はできていると確信する。
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