平成27年4月28日
グローバル時代こそ国旗国歌尊重を
国旗・国歌に関する苦闘の歴史
福岡県内の高等学校ではかつては国旗掲揚と国歌斉唱に反対をする先生方が多く、卒業式前の職員会議では深夜まで不毛の議論が行われていたと聞く。今では卒業生たちの社会での活躍を念じながら、厳粛な中にあって心のこもった卒業式がどの学校でも行われている。福岡県においては教育行政と現場で立ち上がった先生方が一体となり、教育の正常化がすすめられたからこそ、今の状況がある。他県においては校長先生が職員の反対にあって孤立して自ら命を落とされる痛ましい事件もあった。福岡でもこの問題で疲労困憊し、命を縮められた管理職の方々がたくさんいらっしゃったと聞き及んでいる。福岡教育連盟は研修会のたびに国旗を掲げ、会のはじめ、国歌を斉唱している。これは先輩方の苦闘の歴史を胸に刻み、国家社会に有為な人材の育成に邁進しなければならないとの思いから四十数年にわたって続けているものである。国歌斉唱を行う国立大は少数
先日、次世代の党の松沢成文幹事長が参議院予算委員会で、文部科学省の資料から卒業式で国歌斉唱を実施した国立大学が86大学のうち14大学しかなかったことを示し、「税金で賄われている以上、国旗掲揚と国歌斉唱は当たり前だ」と下村文科大臣に質した。大臣は「国立大学設置者として適切な対応がとられるよう要請していきたい」と答弁し、安倍首相も税金によって賄われていることに鑑みれば、教育基本法の方針に則って実施されるべきとの考えを示した。これは政府が大学側に交付金を盾に脅すという話ではない。学生にとっては公費の恩恵を受けて、学問に身を捧げることができるのである。教育的観点からは、学生に社会全体から期待されていることを理解させ、勉学を積みいずれは恩返しをしなければならないという意識を醸成させることが肝要なのだ。ゆえに「立志」を確認する場として教育的意義の高い式典における国旗掲揚、国歌斉唱はイデオロギー以前の問題であり、質問も答弁も至極真っ当なものと考える。なお、数年前、福岡県の三つの県立大学の入学式、卒業式で国歌斉唱が式次第にないことが県議会で明らかになったが、その後是正が図られている。「大学への不当な介入」と主張する朝日社説
ところが、4月11日の朝日新聞の社説では、この件を「大学への不当な介入」として「首相と文科省は猛省すべきだ」と強い調子で批判しており、かなりの違和感を覚える。その根拠を「学問の自由」と「大学の自治」に置いているが、国旗・国歌はそれらと関係があるとは思えない。大学生が勉強しないと言われているが、それは「志」が育成されていないからであって、学問の自由は保障されているのだ。また、文科大臣はあくまでも要請といっているわけだから最終的には大学側が判断することである。同社説では文科省が国立大86校の卒業式や入学式の国旗掲揚や国歌斉唱の実施状況を調べていたことに対して驚きだとも述べているが、先に述べたこの問題の不幸な歴史を知っていれば、「こんなことで驚くこと自体が驚きだ」と言いたくなる。
グローバル時代こそ国や地域に誇りを
考えてみると、保守系の教科書採択を戦争を賛美するものとする論調や道徳教育は国の価値観の押し付けだとする論調も構造は同じであり、この種のレッテルを貼る人々は本当に教育現場を見たことがあるのだろうかと疑問を感じざるを得ない。国家というものを極端に忌避し、「個」の尊重やら、「自己決定権」とやらを極度に賛美してきた結果が現代の日本の姿であり、戦後の教育を歪めてきた元凶なのではないかと考えると、「猛省」すべきはいったい誰なのか。グローバル化の時代であるからこそ自分の国や地域に誇りをもち、深く思いを致すことのできる人材を育成することが求められているのではないかと強く思う。※この文章は平成二十七年四月十六日に産経新聞に掲載された「一筆両断」に修正を加えたものです。
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