福岡教育連盟は教育の正常化を目指し、日々教育活動に励む教職員の集まりです。

私たちの主張

Opinion

平成2606

「担任の入学式欠席」問題に見る教師像 ~問われるは「日頃の姿勢」そして「情と厳しさ」~


瞬時に全国的議論に

埼玉県立高校の教諭が長男の入学式を優先し、自身が担任する新1年生の入学式を欠席した問題がこの4月大きな議論を呼んだ。発端は入学式に来賓として招かれた県議がフェイスブックに書き込んだことということだが、その日のうちから埼玉県教育委員会には電話やメールが殺到したという。校長、教育長を批判するものから、当該教諭への批判あるいは理解を示すものと多岐にわたる内容で、さらにはその是非をめぐりネット上で議論が沸騰した。県教育長は校長会で異例の「注意」を促したが、一番驚いたのは事前に学校長と相談し、文書も用意した上で休暇届を出した教諭自身だろう。改めて現代の情報伝達とネット上の反応の速さに驚くばかりである。

論点整理

この問題は教師論、教育法規に関する視点、さらには現代の日本人のライフスタイルといった観点で議論された。教育法規に詳しい坂田仰氏(日本女子大学教授)も「法律論と教育論が複雑に絡み合い、一筋縄ではいかない問題」と述べている。(『内外教育』平成26年4月25日)
上越教育大学教授・学長特別補佐である廣瀬裕一氏は『週刊教育資料』2014年6月16日号の「担任の入学式欠席の是非」と題した一文で次の七つの論点を示している。
①優先すべきは公か私か。
②教師は「聖職者」か「労働者」か。
③「(教員としての)崇高な使命」か「(保護者としての)第一義的責任」か。
※(   )は編集部が追加
④「時季変更権」は行使できるか。
⑤そもそも「担任」の役割は何か。
⑥学級は「ゲマインシャフト」か「ゲゼルシャフト」か。
⑦一律に論じうるか。
それぞれの論点の考察は非常に説得力に富むものであるが、ここでは割愛し、⑦の論点に注目する。

個別の事情

廣瀬氏はここで次のような設例を提示している。そのまま引用する。
【設例1】「A教諭は教育熱心で土日も休まず指導に明け暮れ、信望も厚かった。しかし息子が不登校になって苦労し、家庭を犠牲にしてきたことを悔いた。幸い息子は何とか卒業し、高校にも合格した。せめて入学式には出てやりたい。しかし、一年生を担任する自校の入学式と重なった」。
【設例2】「B教諭は家庭的問題はないが、私用でよく休み、担任や部活動指導をも逃げ続け、周りの不満が絶えない。校長は長期的にB教諭を育てようと考え、指導説得してあえて一年生の担任を命じた。B教諭は渋々引き受けたが、入学式当日は息子の入学式と重なるから休みたいという」。
あくまで仮想のことで極端な印象も受けるが、学校現場には勤務態度としてA教諭的傾向を持つ教員もB教諭的傾向をもつ教員も実在する。そして廣瀬氏は次のように述べている。
「私が校長なら、A教諭には、親として子息の入学式に出られるよう配慮し休暇を与える。新入生には、学校というチームで組織的にフォローする。B教諭には、実質的に時季変更権を行使してでも担任として自校の入学式に出てもらう。差別ではない。個に応じた指導である。」

「尊敬」される職業であるために

この埼玉の事例における個別の事情はわからないし、なかなか決着を見ない問題である。しかし、ここに一つの答えらしきものが見えてくる。つまり、教師側は「日頃の姿勢や教育実践」が問われ、管理職側には「情と厳しさ」、言い換えれば本気の学校運営が問われるということだ。今の言い方をすれば組織マネジメントの問題ということになる。教育委員会も守るべき事情がある場合は教員を守るべきである。
今回の議論では教諭を支持する声も多かったと聞くが、それが過酷な教師という職業を応援してということなら理解できる。たしかに希望を持って教壇に立った若い教師が、朝から夜遅くまで仕事に追われ、児童生徒との関係や保護者対応に悩み、心身共に病んでしまうケースも多いと聞く。しかし、一方で職業選択の一つとして安易に教師を選び、自覚なきままに教壇に立ち、早々に離職するケースも増えているという。
教師は「労働者」と割り切れる職業ではない。
批判はむしろ教師が「尊敬」される職業であって欲しいという社会からの期待であると受け止めるべきであろう。ただ、特別の事情がない限りは、大多数の教師は私より公を優先していることを最後に付け加えておきたい。